1.9 十分統計量
前節のデータ処理不等式は「加工すると情報は減る(≤)」と言っていた.では,減らないのはどういうときか.この等号の場合を特徴づけるのが本節の主題である.
動機は統計にある.データ𝑋からパラメータ𝜃を推定するとき,𝑋をそのまま持ち歩くのは大きい.標本平均や最大値のように,データを要約する関数𝑇を 統計量という.ある統計量の値𝑇(𝑋)だけ持っていれば𝜃について𝑋と同じだけ分かる,という状況があれば,以降の議論は𝑇(𝑋)の上でやってよい.このとき𝑇を十分統計量 という.
一つ断っておく.以下では𝜃を確率変数として扱う.統計では未知パラメータを定数とみなすことが多いが,𝐼(𝜃;𝑋)のような情報量は同時分布に対して定まる量なので,𝜃自身に分布がなければ書けない.そこで𝜃に分布を一つ与え,(𝜃,𝑋)を同時分布をもつ組として扱う.以下で使うのはその同時分布の構造だけで,𝜃の分布の具体形は使わない.
典型例. コインを𝑛回投げて表裏の列𝑋 =(𝑋1,…,𝑋𝑛)を得たとする.表の確率𝜃を推定したいなら,どの順番で表が出たかは要らない.表の回数𝑇(𝑋) =∑𝑖𝑋𝑖だけあれば十分である.実際,表の回数を𝑘と固定してしまえば,その条件のもとで列𝑋がどれになるかは(𝑛𝑘)通りの等確率で,𝜃にまったく依存しない.𝑇を知ったあとの𝑋の分布が𝜃に依存しない.これが「𝑇が𝜃の情報をすべて吸い上げている」ということであり,以下の定義が形式化しているのはこの状況である.
定義
定義 1.9.1(十分統計量). 統計量𝑇(𝑋)が𝜃に対し十分であるとは,𝜃 →𝑇(𝑋) →𝑋がマルコフ連鎖(定義 1.8.3)をなすことをいう.すなわち𝑇(𝑋)を与えたとき𝜃と𝑋が条件付き独立になること(𝜃 ⟂𝑋 ∣𝑇(𝑋))である.
語を一つ断っておく.本節が十分と呼ぶのは,確率変数𝑋を要約する統計量𝑇である.第13章 13.6 節はコルモゴロフ十分統計量という語を置くが,そちらが十分と呼ぶのは自然数を含む有限集合であって,確率変数でも統計量でもない.同じ「十分」を冠していても別の対象についての語なので,混ぜて読まないこと.
マルコフ連鎖𝜃 →𝑇(𝑋) →𝑋は「𝜃から𝑋への影響が,すべて𝑇(𝑋)を経由している」と読む.上のコインの例なら,𝜃が決めているのは表の回数の分布だけで,回数さえ決まれば列の並びは𝜃と無関係に決まる,という構造がそのまま矢印になっている.𝑋から𝑇(𝑋)は関数(情報が減る向き)なのに,𝜃から見ると𝑇(𝑋)で十分である.この非対称さが「十分」の内容である.
情報の保存
定理 1.9.2. 𝑇が十分なら
𝐼(𝜃;𝑋)=𝐼(𝜃;𝑇(𝑋)).
証明. 一般に後処理不等式(定理 1.8.2)から𝐼(𝜃;𝑇(𝑋)) ≤𝐼(𝜃;𝑋).
逆向きは十分性から出る.マルコフ連鎖の定義は両端について対称(1.8 節)なので,𝜃 →𝑇(𝑋) →𝑋は𝑋 →𝑇(𝑋) →𝜃と読み替えてよい.この向きでデータ処理不等式のマルコフ版(定理 1.8.4)を当てると𝐼(𝑋;𝜃) ≤𝐼(𝑇(𝑋);𝜃),相互情報量の対称性(命題 1.3.3)で書き直して𝐼(𝜃;𝑋) ≤𝐼(𝜃;𝑇(𝑋))を得る.両者を挟めば等号.◼
一般のデータ処理は情報を減らしうる(≤).十分統計量はその等号がちょうど成り立つ「情報を一切落とさない要約」である.十分統計量を使えば,推定の議論を低次元の𝑇(𝑋)上で行ってよい,という実用上の御利益がある.
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