1.8 データ処理不等式

「データをいじっても,もとになかった情報は生まれない」は,情報理論の格率の一つである.受け取ったにどんな後処理を施しても,について新たに知れることは増えない.当たり前に聞こえるが,主張の射程は広い.は任意でよいので,どんなに巧妙な信号処理・特徴抽出・機械学習モデルであっても,通信路から出てきたを加工しただけではについての情報は増えない,と言っている.だから「どんな受信機を設計しても超えられない限界」を論じられる.第6章の通信路符号化の逆定理(容量を超えるレートでは誤りが消えない)は,この不等式なしには証明できない.

形式的には相互情報量の単調性として述べられる.本節では,いちばん一般的な形(相対エントロピーの単調性)から出発して,相互情報量の言葉へ,さらにマルコフ連鎖の言葉へと三段階で降りていく.

相対エントロピーの単調性(土台)

定理 1.8.1. 同じアルファベット上の二つの分布と写像をとる.で送った先の分布をによる 像測度 といい,𝑓𝑝と書く.このとき

𝐷(𝑓𝑝𝑓𝑞)𝐷(𝑝𝑞).

これは「分布をで粗くまとめると,二つの分布の見分けはつきにくくなる」という主張である.が単射なら情報は何も失われず等号,逆にが定数写像なら送り先では両者が同じ分布になってしまい左辺は 0,というのが両極である.証明は前節の対数和不等式そのままで,で同じ値に潰される点たちを一つの和にまとめるだけである.

証明. かつとなるがあれば右辺がで主張は自明だから,の点ではとしてよい.そうした点は両辺のどの項にも寄与しないので最初から取り除き,以下とする.

送り先の点ごとに,に潰される点たちをまとめる.定義から

(𝑓𝑝)(𝑧)=𝑥:𝑓(𝑥)=𝑧𝑝(𝑥),(𝑓𝑞)(𝑧)=𝑥:𝑓(𝑥)=𝑧𝑞(𝑥)

である.この和に対数和不等式(定理 1.7.1)をとして適用すると

(𝑓𝑝)(𝑧)log(𝑓𝑝)(𝑧)(𝑓𝑞)(𝑧)𝑥:𝑓(𝑥)=𝑧𝑝(𝑥)log𝑝(𝑥)𝑞(𝑥)

を得る.左辺は「まとめてから測った量」,右辺は「個別に測って足した量」である.について足し合わせると,左辺は,右辺は全体にわたる和なのでとなり,主張を得る.

符号長で読む. だと思い込んで符号化する人の損(1.6 節)は,観測を粗くするほど小さくなる.細かく見ていれば「ではありえない値が出た」と気づけたのに,まとめてしまうと気づけない.だから損も減る.これがデータ処理不等式すべての土台になる.

形式化: klDiv_map_le (ソース)

後処理は相互情報量を増やさない

定理 1.8.2(後処理不等式). を後処理に通すと相互情報量は増えない:

𝐼(𝑋;𝑓(𝑌))𝐼(𝑋;𝑌).

証明. 写像を考え,定理 1.8.1(同時分布),に対してで適用する.ここで周辺積 と書く.鍵は次の二つの像測度の等式である.

(i) で同時分布を送るとの同時分布になる:𝑔 𝑝𝑋,𝑌 =𝑝𝑋,𝑓(𝑌).実際だから定義どおり.

(ii) で周辺積を送ると,第 2 成分だけがで送られての周辺分布はなので,これはの周辺積にほかならない.

したがって,定理 1.8.1𝐷(𝑔𝑝 𝑔𝑞) 𝐷(𝑝 𝑞))は

𝐷(𝑝𝑋,𝑓(𝑌)𝑝𝑋𝑝𝑓(𝑌))__________=𝐼(𝑋;𝑓(𝑌))𝐷(𝑝𝑋,𝑌𝑝𝑋𝑝𝑌)________=𝐼(𝑋;𝑌)

となり,定義 1.3.1 により

証明でやったのは「相互情報量は同時分布と周辺積のあいだの相対エントロピーである」(定義 1.3.1 の読み)ことに気づき,その二つの分布を同じ写像で送って定理 1.8.1 を当てただけである.側には何もせず側だけを粗くしたので,「の解像度を落とすと,そこから読み取れるの情報も落ちる」という当然の主張になっている.等号が成り立つのはについての情報を一切捨てないときで,その状況をきちんと特徴づけたのが 1.9 節の十分統計量である.

形式化: mutualInfo_le_of_postprocess (ソース)

マルコフ連鎖版

ここまでの二つの定理では,の加工が写像による決定論的なものだった.しかし実際の通信路は「送ったにノイズが乗ってが出てくる」という確率的な加工である.これを含む形へ進むために,三つの確率変数が一列に並ぶという状況を定義しておく.

定義 1.8.3(マルコフ連鎖). 確率変数マルコフ連鎖をなす とは,を与えたときが条件付き独立であること,すなわちである各について

𝑝(𝑥,𝑦𝑧)=𝑝(𝑥𝑧)𝑝(𝑦𝑧)

が成り立つことをいう.このときと書く.

形式化: IsMarkovChain (ソース)

条件が言っているのは「を知ってしまえば,の値をさらに教わってもの見え方は変わらない」ということである.からへの影響がすべてを通ってしか届かない,と読める.典型例はにノイズを乗せてを作る状況で,の分布がだけで決まりには直接よらないなら,この条件が成り立つ.定理 1.8.2 の決定論的な後処理はその特別な場合(ノイズのない加工)にあたる(定理 1.8.2 を後で定理 1.8.4 から復元するときは,次に述べる対称性を使って連鎖をの向きに読む).1.4 節で条件付き相互情報量が「減る例」として挙げた,もすべて同じコインの値である状況も,の最も単純な例である.

命題 1.4.2 の等号条件により,この定義はと言い換えられる.以下の証明ではこの形で使う.

矢印は向きのある絵を与えるが,定義そのものはについて対称であり,は同じ条件である.矢印が表しているのは時間の流れではなく,が両側のあいだに挟まっていることだと思えばよい.なお確率過程論でいうマルコフ連鎖(状態が時刻ごとに遷移し,次の状態が直前の状態だけで決まる列)と同じ語だが,本章で必要なのは上の三変数の条件付き独立だけであり,遷移行列や定常分布は使わない(その意味でのマルコフ連鎖は第3章で定常情報源の例として現れる).

定理 1.8.4(データ処理不等式・マルコフ版). がマルコフ連鎖(定義 1.8.3)のとき,

𝐼(𝑋;𝑌)𝐼(𝑍;𝑌).

読み方は素直である.「の情報が中継変数を経由してしかに届かないなら,について持つ情報はが持つ情報を超えない」.これは中継地点がボトルネックになる,という素朴な見立てそのものである.実際の通信路(送信語を符号化し,通信路を通し,受信語から復号する)はまさにこの形の連鎖なので,以降の議論で使うのはほぼこの版である.

証明.について持つ情報を,チェイン則(定理 1.5.1)で二通りに展開する:

𝐼(𝑋,𝑍;𝑌)=𝐼(𝑍;𝑌)+𝐼(𝑋;𝑌𝑍),𝐼(𝑋,𝑍;𝑌)=𝐼(𝑋;𝑌)+𝐼(𝑍;𝑌𝑋).

(後者は前者での役割を入れ替えたもの.は対の取り方の順序によらない.)マルコフ連鎖の定義(定義 1.8.3)は,命題 1.4.2 の等号条件を通してと言い換えられる.よって第 1 式から.これを第 2 式に代入すると

𝐼(𝑍;𝑌)=𝐼(𝑋;𝑌)+𝐼(𝑍;𝑌𝑋).

条件付き相互情報量の非負性(命題 1.4.2)よりだから,𝐼(𝑍;𝑌) 𝐼(𝑋;𝑌),すなわち

形式化上の注記. 形式化はマルコフ連鎖を,を与えたときのの条件付き独立を結合分布の分解として述べる IsMarkovChain で定義する.教科書の矢印記法とは表層が異なるが,内容は定義 1.8.3 と同じである.まずマルコフ下でを示し,そこから本定理を導く.なお本ライブラリの結論はの形(中継側と組む配置)で,教科書でよく見るとは引数配置が異なるが,どちらもデータ処理不等式の正しい一形態である.

形式化: mutualInfo_le_of_markov (ソース)

応用:記憶のない通信路を 1 文字ごとに分解する

定理 1.8.5(記憶のない通信路の 1 文字分解). 入力を通信路に通して出力を得るとし,通信路は 記憶がない(memoryless)とする.すなわち,入力を与えたとき,出力の各文字の条件付き分布が同じ時刻の入力だけで決まり,しかもが条件付き独立であるとする.このとき

𝐼(𝑋𝑛;𝑌𝑛)𝑛1𝑖=0𝐼(𝑋𝑖;𝑌𝑖).

証明. 定理 1.3.4 よりと書ける.二項をそれぞれ評価する.

第 2 項は等号で分解する. 定理 1.2.3 を繰り返し当てるとである(各段で補題 1.2.5を条件に抱えたまま使う).記憶のなさから,を知ったうえではは他の出力に依存せず,しかもだけで決まるので,各項はに等しい.よって

第 1 項は不等号で分解する. 同じく定理 1.2.3 を繰り返して,各項に条件付けの単調性(定理 1.2.4)を当てて.よって

二つを合わせると

𝐼(𝑋𝑛;𝑌𝑛)𝑖𝐻(𝑌𝑖)𝑖𝐻(𝑌𝑖𝑋𝑖)=𝑖(𝐻(𝑌𝑖)𝐻(𝑌𝑖𝑋𝑖))=𝑖𝐼(𝑋𝑖;𝑌𝑖),

最後は定理 1.3.4 による.

全体で運べる情報が 1 文字あたりの情報の倍を超えない,というこの上界が,通信路容量を「1 文字あたりの量」として定義してよいことの根拠になる.第6章を先取りする結果である.

証明で不等号が入ったのは第 1 項,出力どうしの相関を捨てたところだけである.定理 1.5.3(i.i.d. 加法性)では等号だったのに,ここが不等号なのは,入力に相関を許しているからで,入力が相関すれば出力も相関し,になりうる.裏返せば「入力を相関させても得はしない」という主張でもある.

形式化上の注記. 形式化では記憶のなさを二つの IsMarkovChain 仮定(各文字の出力が他文字の入力を経由しないこと,出力どうしが条件付き独立であること)として与える.本文の定理 1.8.5 が括弧で述べた二条件がそのままこの形になっている.どちらも通信路の構造そのものを表す前提条件で,結論の核心を仮定に抱えさせるものではない.

形式化: mutualInfo_le_sum_per_letter_of_memoryless_strong (ソース)

InformationTheory — 形式化検証つき情報理論教科書(レビュー版).数式は MathJax + AMS Euler で事前レンダリング.