16.6 行列式の不等式
本節の対象は確率変数ではなく,𝑛次の実対称正定値行列である.実対称行列Σが 正定値 であるとは,0でないどの実ベクトル𝑥についても𝑥𝖳Σ𝑥 >0となることをいう.正定値行列Σの行列式は正で(下で借りるスペクトル分解による),その1/𝑛乗は行列の大きさを1座標あたりに直した量にあたる.実際,𝛼 >0に対し単位行列の𝛼倍ではdet(𝛼𝐼) =𝛼𝑛だから,1/𝑛乗はちょうど𝛼になる.本節が示すのは,二つの正定値行列を足すとこの量が足し算以上になる,という不等式である.
1/𝑛乗をとってから足し算と比べるのには理由がある.detそのものは,行列を𝛼倍すると𝛼𝑛倍になる量である.1/𝑛乗はこれを,𝛼倍でちょうど𝛼倍になる量に直す.足し算も𝛼倍で𝛼倍になるので,足し算と同じ倍率で動くのは1/𝑛乗のほうであり,二つを並べて大小を問う相手になるのもこちらである.
比べる相手は前節で扱ったものでもある.Σが対角行列で対角成分𝑎1,…,𝑎𝑛がすべて正なら,Σは正定値で,(detΣ)1/𝑛は(∏𝑛𝑖=1𝑎𝑖)1/𝑛,すなわち 補題 16.5.5 の左辺にほかならない.対角成分𝑏1,…,𝑏𝑛がすべて正である対角行列を足す場合に本節の不等式が言うのは
(𝑛∏𝑖=1𝑎𝑖)1/𝑛+(𝑛∏𝑖=1𝑏𝑖)1/𝑛≤(𝑛∏𝑖=1(𝑎𝑖+𝑏𝑖))1/𝑛であり,積の𝑛乗根,すなわち相乗平均が足し算以上になるという主張である.対角でない正定値行列についても,同じことが行列式の1/𝑛乗について成り立つ,というのが本節の不等式である.
行列式がエントロピーとつながる筋は,ガウス分布を通すと見える.𝑋1,…,𝑋𝑛を独立な実数値確率変数とし,各𝑋𝑖が分散𝑎𝑖 >0のガウス分布に従うとする.結合微分エントロピー(7.4 節)は,系 7.4.4 と 定理 7.2.2 より各成分の値の和∑𝑛𝑖=112log(2𝜋𝑒 𝑎𝑖)である.分散を対角に並べた行列をΣと書けば𝑎1⋯𝑎𝑛 =detΣだから,これを𝑛で割って1座標あたりに直すと12log(2𝜋𝑒 (detΣ)1/𝑛)になる.1座標あたりの不確かさを決めているのは,行列式そのものではなくその1/𝑛乗である.
示し方は,前節の 補題 16.5.5 を行列の固有値に当てる直接の道をとる(Cover–Thomas は,共分散行列がΣ1,Σ2であるガウスベクトルに𝑛次元のエントロピーべき不等式を当てて導くが,本書はその𝑛次元の形を述べない).そのために,線形代数の事実を一つ借りる.
本節を皮切りに,本章は名前で借りて証明を載せない定理をいくつか置く.そのうち本章が新たに借りるものはどれも,証明を載せないだけで,無条件の機械検証済みの定理として形式化されているが,16.7 節 の de Bruijn の恒等式と,16.8 節 の独立な和の密度および Stam の不等式の三つだけは例外で,機械検証が本文の借用より狭いところまでしか及ばない.その範囲はそれぞれの場所に書く.
実対称行列のスペクトル分解を借りる.𝑛次の実対称行列は直交行列によって対角化でき,対角に並ぶ固有値はすべて実数である,という事実である.あわせて,行列式が固有値の積に等しいこと,行列式が積を積に写すこと,すなわち同じ大きさの二つの正方行列の積の行列式がそれぞれの行列式の積に等しいこと,および実対称行列が正定値であることと固有値がすべて正であることが同値であることも借りる.当てる相手は 定理 16.6.1 の証明に現れる三つの行列,すなわちΣ1,Σ2,およびそこで作るΣ0 :=Σ−1/21 Σ2 Σ−1/21である.依存するのは 定理 16.6.1 の証明と,上でdetΣが正であることを言った一箇所だけで,本書のほかの主張はこれを使わない.
借りた事実が返す固有値を,以下𝜆1,…,𝜆𝑛と書く.この文字は既出の章がそれぞれ別の意味に使っているが,本節のものはそのどれとも別である.
定理 16.6.1(Minkowski の行列式不等式). 𝑛 ≥1とし,Σ1,Σ2を𝑛次の実対称正定値行列とすると
(detΣ1)1/𝑛+(detΣ2)1/𝑛≤(det(Σ1+Σ2))1/𝑛である.
証明. はじめにΣ1の平方根を作る.借りたスペクトル分解によりΣ1は直交行列で対角化でき,正定値だから対角に並ぶ固有値はすべて正である.それぞれを正の平方根に取り替えて同じ直交行列で戻した行列は実対称で,固有値がすべて正だから正定値であり,2乗するとΣ1になる.これをΣ1/21と書き,その逆行列をΣ−1/21と書く.逆行列も同じ直交行列で対角化され,固有値は正の数の逆数だから,これも実対称正定値である.
Σ0 :=Σ−1/21 Σ2 Σ−1/21とおく.Σ−1/21とΣ2が実対称だからΣ0も実対称であり,𝑥 ≠0に対しΣ−1/21が正則なのでΣ−1/21𝑥 ≠0であって
𝑥𝖳Σ0𝑥=(Σ−1/21𝑥)𝖳Σ2(Σ−1/21𝑥)>0だからΣ0は正定値である.借りたスペクトル分解によりΣ0の固有値𝜆1,…,𝜆𝑛はすべて正で,Σ0を対角化する直交行列は𝐼 +Σ0も対角化するから
detΣ0=𝑛∏𝑖=1𝜆𝑖,det(𝐼+Σ0)=𝑛∏𝑖=1(1+𝜆𝑖)である.Σ2 =Σ1/21 Σ0 Σ1/21とΣ1 +Σ2 =Σ1/21 (𝐼 +Σ0) Σ1/21に行列式の積の規則を当て,det(Σ1/21)2 =detΣ1を使うと
detΣ2=detΣ1⋅detΣ0,det(Σ1+Σ2)=detΣ1⋅det(𝐼+Σ0)である.detΣ1 >0だから,示すべき不等式の両辺を(detΣ1)1/𝑛で割ると
1+(𝑛∏𝑖=1𝜆𝑖)1/𝑛≤(𝑛∏𝑖=1(1+𝜆𝑖))1/𝑛と同値になる.
これを示す.補題 16.5.5 を𝑡𝑖 =1/(1 +𝜆𝑖)ととって当てたものと,𝑡𝑖 =𝜆𝑖/(1 +𝜆𝑖)ととって当てたものを足すと
(𝑛∏𝑖=111+𝜆𝑖)1/𝑛+(𝑛∏𝑖=1𝜆𝑖1+𝜆𝑖)1/𝑛≤1𝑛𝑛∑𝑖=111+𝜆𝑖+1𝑛𝑛∑𝑖=1𝜆𝑖1+𝜆𝑖=1である.最後の等号は,𝑖ごとに二つの項を足すと1になり,それを𝑛個足して𝑛で割ることによる.両辺に正の数(∏𝑛𝑖=1(1 +𝜆𝑖))1/𝑛を掛けると,左辺の第1項は1に,第2項は(∏𝑛𝑖=1𝜆𝑖)1/𝑛になるから,示すべき不等式を得る.◼
例 16.6.2. 𝑛 =2とし,Σ1を単位行列,Σ2を対角成分が𝑎 >0,𝑏 >0の対角行列とすると,定理 16.6.1 は
1+√𝑎𝑏≤√(1+𝑎)(1+𝑏)になる.𝑎 =4,𝑏 =1では両辺が3と√10 =3.1622…で狭義であり,𝑎 =𝑏 =2では両辺とも3で等号である.この形で等号になるのは𝑎 =𝑏のとき,すなわちΣ2がΣ1の定数倍のときに限る.
証明. detΣ1 =1,detΣ2 =𝑎𝑏であり,Σ1 +Σ2は対角成分が1 +𝑎,1 +𝑏の対角行列だからdet(Σ1 +Σ2) =(1 +𝑎)(1 +𝑏)である.𝑛 =2なので1/𝑛乗は平方根であり,定理 16.6.1 はこの形になる.𝑎 =4,𝑏 =1では左辺が1 +√4 =3,右辺が√5⋅2 =√10である.𝑎 =𝑏 =2では左辺が1 +√4 =3,右辺が√3⋅3 =3である.なお両辺とも正だから,16.5 節 で既知とした1/2乗の単調性により,この不等式は両辺を2乗した1 +2√𝑎𝑏 +𝑎𝑏 ≤1 +𝑎 +𝑏 +𝑎𝑏,すなわち2√𝑎𝑏 ≤𝑎 +𝑏と同値で,これは𝑛 =2の 補題 16.5.5 にほかならない.最後の不等式は(√𝑎 −√𝑏)2 ≥0を移項したものだから,等号になるのは√𝑎 =√𝑏のとき,すなわち𝑎 =𝑏のときに限る.そのときΣ2 =𝑎 Σ1である.◼
同時に対角化してしまうと読む. 例 16.6.2 で見たとおり,𝑛 =2で片方を単位行列にとると 定理 16.6.1 は2点の相加相乗平均と同値になる.一般の場合の証明がやっているのも同じことで,Σ−1/21を両側から掛けて片方を単位行列に直し,残ったΣ0をスペクトル分解で対角に直してしまえば,残るのは固有値についてのスカラーの不等式である.行列がそのままでは対角でないぶんの手間は,スペクトル分解の借用がすべて引き受けている.借りたスペクトル分解を別にすれば,本節が使う解析的な事実は,補題 16.5.5 の証明が 補題 1.1.9 をlogに当てる一箇所だけである.残りは行列式と固有値の計算である.
本節で不等号を作った仕掛けは,前の五節のものとは別である.そちらは,いくつもの変数を部分集合で覆っておいて,どの番号が何回覆われたかを数えるところから不等号を出した.この数え上げが働くには動かす部分集合が要る.本節の対象である正定値行列にはそれがなく,かわりに,二つを足したときのふるまいを問うところから不等号が出た.次節から扱う実軸に値をとる確率変数1個ないし2個にも動かす部分集合はないので,定義 16.1.1 の𝐻(𝑋𝑆)はここから先に現れない.次節はまず,足したときのふるまいを問える量を実軸の側で定める.16.8 節 で借りる不等式は,その量について本節と同じ形をしている.
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