ここまでは期待値の話だった.ブロックエントロピーも条件付きエントロピーも,情報源の分布から計算される数であって,実際に出てきた 1 本の系列を見て決まる量ではない.第2章の漸近等分配性(定理 2.1.4)は,そこを一歩進めて「実現ごとの値が
しかし定常性だけでは言えない.定常性は「窓をどこに置いても分布は同じ」としか言っておらず,「1 本の系列が情報源の全体を代表する」とは言っていないからである.この二つは別のことで,食い違う情報源を作るのは難しくない.時間平均が実現ごとに違う値に落ち着いてしまえば,それが期待値に一致するはずもない.足りない仮定を補うのが本節のエルゴード性である.
定義 3.4.1(エルゴード性). 情報源の実現
を シフト という.集合
不変集合とは「先頭を何文字捨てても所属が変わらない」性質のことである.たとえば「
形式化: ErgodicProcess (ソース)
例 3.4.2(定常だがエルゴードでない情報源). 公平なコインを最初に一度だけ投げる.表が出たら,以後は公平なコインを投げ続けて出目をそのまま出力する.裏が出たら,以後は
定常である. ブロックの確率は,どの
である.最初のコインの結果を固定すればそのあとは i.i.d. で,i.i.d. 情報源は定常(例 3.1.2)だからで,
エルゴード的でない.
1 本の系列は全体を代表しない. 例 3.4.2 では,実現ごとに「自分がどちらの世界にいるか」が最初に決まってしまい,あとからどれだけ長く観測してもその決定は覆らない.時間平均は
どんな情報源がエルゴード的か. i.i.d. 情報源はエルゴード的である.また例 3.1.5 のように,どの状態からどの状態へも有限歩で到達できるマルコフ情報源もエルゴード的である.どちらも本書では証明せず,形式化もされていない(前者は独立列の 0-1 法則から,後者は到達可能性から従う).どちらも本章の主張の根拠には使わず,第2章との関係を述べるためだけに置く.第2章の情報源はすべて前者にあたるので,本章は第2章の設定を真に広げていることになる.
道具を一つ借りる.Birkhoff の個別エルゴード定理,すなわち「エルゴード的な定常情報源では,実現の関数の時間平均がその期待値に確率 1 で収束する」という定理である.使う形を書いておく.
本章の主張がこの定理に依拠するのは 3.5 節の補題 3.5.6 と補題 3.5.8 の二つの証明だけで,他の主張はすべてこの二つを経由してのみ依存する(以下の二段落は,定理の読み方を説明するために当てて見せるだけで,本章の主張の根拠にはならない).章の外では,第15章 定理 15.6.1 の証明がこの定理を直接当て,同章 15.7 節 が借りる無限の過去を使う戦略の収束と記憶が伸びる戦略の収束の筋書きもこれを当てる.どちらもアルファベットが株価比の有限集合になるだけで,上に書いた形の射程は広がらない.
時間平均と空間平均. 左辺は 1 本の系列に沿って時刻を動かした平均で,右辺は情報源のすべての実現にわたる平均である.前者は観測から計算できるが,後者は分布を知らないと計算できない.定理はこの二つが一致すると言っている.長く観測することが,多数の実現を集めることの代わりになる,ということである.統計にとってはこれが基本の一手で,1 本の時系列から情報源の性質を推定してよい根拠がここにある.
第2章の道具の一般化.
エルゴード性がどこで効くか. 例 3.4.2 の情報源にこの定理を当てようとすると,
本書ではこの定理を証明しない.標準的な証明は極大エルゴード不等式(有限個の部分和の上限が正になる集合の上では,平均をとる関数の積分が非負になる)を経由するもので,形式化も同じ道をとっている.「本書で証明しない」ことと「形式化されていない」ことは別である.本節が借りた定理は,本書が証明を載せないだけで,無条件の機械検証済みの定理として形式化されている.
形式化: birkhoff_ergodic_ae,極大エルゴード不等式 maximal_ergodic_inequality (ソース)
形式化上の注記. 形式化は 3.1 節と同じ測度保存力学系の形をとるので,この定理も「
時間平均の分母は
InformationTheory — 形式化検証つき情報理論教科書(レビュー版).数式は MathJax + AMS Euler で事前レンダリング.