15.7 記憶が伸びる戦略と𝑊∞
例 15.6.4 の市場には記憶があった.直前が上向きなら次も確率9/10で上向きである.ところが 系 15.6.2 の右辺には,その記憶がどこにも入ってこなかった.入ってくる余地がない.右辺は𝑋0の分布だけで書かれていて,そう書けるのは,定義 15.1.3 が毎期同じポートフォリオで配分し直すと約束しており,直前に何が出たかを見ないまま配分を決めるからである.本節はこの約束を外す.第𝑖期のポートフォリオを,それまでに出た株価比に応じて選んでよいことにすると,1期あたりの対数収益,すなわち資産倍率(定義 15.1.2)の対数の期待値はどこまで上がるか,という問いを立てる.
列は定常だから,時刻𝑘で直前の𝑘期を見ることと,時刻0で負の時刻を見ることとは同じである.それでも両側の列にしておくのは,節の終わりで無限の過去を見る戦略を述べるためである.直前の𝑘期という言い方を時刻0でするには,負の時刻の株価比が要る.そこで第3章 3.5 節 が借りた 定常列の両側への拡張 を借り直す.借りる形は,定常な列𝑋0,𝑋1,𝑋2,…に対し,負の時刻まで延ばした列…,𝑋−1,𝑋0,𝑋1,…で,整数のℓをどこにとっても(𝑋ℓ,…,𝑋ℓ+𝑛−1)の同時分布がℓに依らず,しかも非負の時刻の部分の同時分布が元の列と一致するものが存在する,というものである.元がエルゴード的なら,延ばした列もシフトについてエルゴード的である.当てる対象は,有限集合X,すなわち本章の株価比の全体に値をとる定常列である.第3章の宣言は有限アルファベットに値をとる情報源について書かれており,本章のXも空でない有限集合だから,射程は広がらない.依存範囲は三つで,定義 15.7.2 以降が両側の列を仮定に置くところ全体,例 15.7.7 が 例 15.6.4 の列に拡張を当てるところ,そして節の終わりで借りる二つがエルゴード性を使うところである.ほかの主張はどれも,両側の列が与えられたところから先の議論である.本書はこの拡張を証明しない(証明しないことと形式化されていることの書き分けは,15.6 節 と同じである).
以下,…,𝑋−1,𝑋0,𝑋1,…はXに値をとる両側の列とする.時刻0から見た直前の𝑘期の株価比は(𝑋−1,…,𝑋−𝑘)である.深さ𝑘の記憶を使うとは,この𝑘個の値を見てから第0期のポートフォリオを決めることをいう.見た値ごとに一つのポートフォリオを選ぶのだから,選び方とは,正の確率で起こる𝑘個の並びのそれぞれにポートフォリオを一つ割り当てる規則のことである.見た値は以下ℎと書く.第7章の微分エントロピーℎ(𝑋)とは別で,あちらはつねに確率変数を引数にとる.どう割り当てるのがいちばん良いかは,見た値ごとに別々に決まる.値を一つ固定してしまえば,残っているのは第0期の株価比の条件付き分布についての 15.2 節 の問いだからである.
命題 15.7.1. 𝑚 ≥1とし,Xを株価比(定義 15.1.1)からなる空でない有限集合,𝑘 ≥0を整数とする.𝑋−𝑘,…,𝑋−1,𝑋0をXに値をとる確率変数とし,ℎ ∈X𝑘をPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ] >0を満たすものとする.このとき,ポートフォリオ(定義 15.1.2)𝑏を動かして
𝔼[log(𝑚∑𝑗=1𝑏(𝑗)𝑋0(𝑗))∣(𝑋−1,…,𝑋−𝑘)=ℎ]を最大にするポートフォリオが存在する.
証明. 𝑥 ∈Xについて𝑝ℎ(𝑥) :=Pr[𝑋0 =𝑥 ∣(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ]とおく.条件付き確率だから𝑝ℎ(𝑥) ≥0であり,𝑋0はXの元しかとらないから∑𝑥∈X𝑝ℎ(𝑥) =1である.すなわち𝑝ℎはX上の分布である.𝑋0のとる値が有限個だから,主張の条件付き期待値は有限和
∑𝑥∈X𝑝ℎ(𝑥)log(𝑚∑𝑗=1𝑏(𝑗)𝑥(𝑗))に等しく,これは 定義 15.1.4 の𝑊(𝑏,𝑝ℎ)にほかならない.命題 15.2.2 を分布𝑝ℎに当てれば,𝑊( ⋅,𝑝ℎ)を最大にするポートフォリオが存在する.◼
これから書き下すのは,15.4 節 の最適倍加率(定義 15.4.3)を,副情報として市場自身の直前𝑘期の株価比をとった形で書いたものである.
定義 15.7.2(深さ𝑘の条件付き対数最適ポートフォリオと𝑊𝑘). 𝑚 ≥1とし,Xを株価比(定義 15.1.1)からなる空でない有限集合,…,𝑋−1,𝑋0,𝑋1,…をXに値をとる両側の列,𝑘 ≥0を整数とする(𝑘 =0のときX0はただ一つの元,すなわち空の並びだけからなる集合とし,それによる条件付けは条件を付けないことと読む).ℎ ∈X𝑘がPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ] >0を満たすとき,𝑥 ∈Xについて𝑝ℎ(𝑥) :=Pr[𝑋0 =𝑥 ∣(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ]とおき,𝑊( ⋅,𝑝ℎ)(定義 15.1.4)を最大にするポートフォリオ(定義 15.1.2)を一つ選んで𝑏∗𝑘(ℎ)と書く(命題 15.7.1 よりそのようなものは存在する).こうして定まる規則𝑏∗𝑘を 深さ𝑘の条件付き対数最適ポートフォリオ と呼び,
𝑊𝑘:=∑ℎPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘)=ℎ]𝑊(𝑏∗𝑘(ℎ),𝑝ℎ)と定める.和はPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ] >0を満たすℎ ∈X𝑘についてとる.記号𝑏∗𝑘と𝑊𝑘は両側の列にも依るが,固定されているものとして書かない.
確率0でしか起こらない並びについては𝑏∗𝑘の値を決めていない.𝑊𝑘の和には現れず,このあと𝑏∗𝑘を当てる先も,確率1で正の確率をもつ並びだからである.
𝑊𝑘は,深さ𝑘の記憶を使ってよいときの1期あたりの対数収益の期待値である.右辺は,見た値ℎごとにそのときの最良の倍加率を計算し,ℎの出方で平均した形,すなわち 定義 15.4.3 の𝑊∗(𝑋 ∣𝑌)の形をしている.違うのは,副情報が外から与えられるのではなく,市場自身の過去だというところだけである.
命題 15.7.3(固定したポートフォリオの最大倍加率としての𝑊0). 𝑚 ≥1とし,Xを株価比(定義 15.1.1)からなる空でない有限集合,…,𝑋−1,𝑋0,𝑋1,…をXに値をとる両側の列,𝑝0を𝑋0の分布とする.このとき,どのポートフォリオ(定義 15.1.2)𝑏についても𝑊(𝑏,𝑝0) ≤𝑊0(定義 15.1.4,定義 15.7.2)であり,等号を与えるポートフォリオが存在する.
証明. 𝑘 =0のときX0はただ一つの元ℎ,すなわち空の並びからなり,それが実現する確率は1である.条件を付けないのだから𝑝ℎは𝑋0の分布𝑝0であり,定義 15.7.2 の和はℎの項だけになって𝑊0 =𝑊(𝑏∗0(ℎ),𝑝0)となる.定義 15.7.2 より𝑏∗0(ℎ)は𝑊( ⋅,𝑝0)を最大にするポートフォリオだから,どのポートフォリオ𝑏についても𝑊(𝑏,𝑝0) ≤𝑊(𝑏∗0(ℎ),𝑝0) =𝑊0であり,𝑏 :=𝑏∗0(ℎ)が等号を与える.◼
系 15.6.2 は,固定したポートフォリオ𝑏で運用したときの時間平均が確率1で𝑊(𝑏,𝑝0)に行き着くと言っていた.命題 15.7.3 の𝑊0は,その行き先のうちいちばん大きいものである.記憶を使わない運用でできることは,ここで頭打ちになる.
深さを増やして損をすることはない.深さ𝑘までしか見ない規則は,深さ𝑘′まで見てよい場面でもそのまま使えるので,最良のものを選び直せば値は下がりようがない.
命題 15.7.4(深さについての単調性). 𝑚 ≥1とし,Xを株価比(定義 15.1.1)からなる空でない有限集合,…,𝑋−1,𝑋0,𝑋1,…をXに値をとる両側の列とする.𝑘,𝑘′を0 ≤𝑘 ≤𝑘′を満たす整数とすると𝑊𝑘 ≤𝑊𝑘′(定義 15.7.2)である.
証明. ℎ′ ∈X𝑘′をPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘′) =ℎ′] >0を満たすものとし,ℎ ∈X𝑘をその最初の𝑘成分,すなわち(𝑋−1,…,𝑋−𝑘)にあたる部分とする.(𝑋−1,…,𝑋−𝑘′) =ℎ′ならば(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎだからPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ] >0であり,定義 15.7.2 より𝑏∗𝑘(ℎ)は𝑊( ⋅,𝑝ℎ)の最大化元,𝑏∗𝑘′(ℎ′)は𝑊( ⋅,𝑝ℎ′)の最大化元である.後者から
𝑊(𝑏∗𝑘(ℎ),𝑝ℎ′)≤𝑊(𝑏∗𝑘′(ℎ′),𝑝ℎ′)である.両辺にPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘′) =ℎ′] ≥0を掛け,正の確率をもつℎ′について足すと,右辺の和は 定義 15.7.2 より𝑊𝑘′だから
∑ℎ′Pr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘′)=ℎ′]𝑊(𝑏∗𝑘(ℎ),𝑝ℎ′)≤𝑊𝑘′を得る.
左辺が𝑊𝑘に等しいことを見る.Pr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ] >0を満たすℎを一つ固定し,𝑏 :=𝑏∗𝑘(ℎ)とおく.最初の𝑘成分がℎであり正の確率をもつℎ′について和をとると,どの𝑥 ∈Xでも
∑ℎ′Pr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘′)=ℎ′]𝑝ℎ′(𝑥)=Pr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘)=ℎ]𝑝ℎ(𝑥)である.両辺ともPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ, 𝑋0 =𝑥]に等しいからである(左辺で落としたℎ′は確率0で,その項は0である).定義 15.1.4 より𝑊(𝑏,𝑝ℎ′) =∑𝑥𝑝ℎ′(𝑥)log(∑𝑗𝑏(𝑗)𝑥(𝑗))だから,𝑥についての和とℎ′についての和を入れ替えて,最初の𝑘成分がℎであるℎ′の寄与はPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ] 𝑊(𝑏,𝑝ℎ)に等しい.正の確率をもつℎ′はどれもその最初の𝑘成分が正の確率をもつので,ℎについて足せば左辺は 定義 15.7.2 の𝑊𝑘である.◼
深さを増やして上がるとまでは,命題 15.7.4 は言っていない.実際に上がる市場があることは 例 15.7.7 が見せる.次の証明では,単調非減少で上に有界な実数列がその上限に収束することを,学部の解析の事実として既知とする.
命題 15.7.5(𝑊𝑘の有界性と上限への収束). 𝑚 ≥1とし,Xを株価比(定義 15.1.1)からなる空でない有限集合,…,𝑋−1,𝑋0,𝑋1,…をXに値をとる両側の列とし,𝑥max :=max𝑥∈Xmax1≤𝑗≤𝑚𝑥(𝑗)とおく(Xは空でない有限集合だから,この最大値は定まる).このとき次の二つが成り立つ(𝑊𝑘は 定義 15.7.2 のものである).
- どの整数𝑘 ≥0についても𝑊𝑘 ≤log𝑥maxである.
- 数列(𝑊𝑘)𝑘≥0はsup𝑘≥0𝑊𝑘に収束する.
証明.
-
どのポートフォリオ𝑏とどの𝑥 ∈Xについても,定義 15.1.2 より𝑏(𝑗) ≥0かつ∑𝑗𝑏(𝑗) =1であり,𝑥maxのとり方より𝑥(𝑗) ≤𝑥maxだから∑𝑗𝑏(𝑗)𝑥(𝑗) ≤𝑥maxである.いっぽう 補題 15.1.5 よりこの和は正だから,対数の単調性(補題 8.2.5)よりlog∑𝑗𝑏(𝑗)𝑥(𝑗) ≤log𝑥maxである.したがって,非負で総和が1の重み𝑝ℎで平均した𝑊(𝑏,𝑝ℎ)もlog𝑥max以下である.定義 15.7.2 の重みPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ]も非負で総和が1だから,𝑊𝑘 ≤log𝑥maxを得る.
-
命題 15.7.4 より(𝑊𝑘)𝑘≥0は非減少で,1. より上に有界だから,既知とした解析の事実によりその上限に収束する.
◼
定義 15.7.2,命題 15.7.3,命題 15.7.4,定義 15.7.6 を並べると,どのポートフォリオ𝑏についても
𝑊(𝑏,𝑝0)≤𝑊0≤𝑊1≤𝑊2≤⋯≤𝑊∞という連鎖になる.いちばん左が記憶を使わない運用の値,いちばん右がいくらでも深い記憶を使ってよいときの値である.ここまでの主張は,列が定常であることもエルゴード的であることも使っていない.どれも時刻0の一期についての量だからである.定常性を使うのは 例 15.7.7 の計算と,このあと時間平均が出てくるところで,エルゴード性を使うのは後者だけである.
例 15.7.7(記憶のあるマルコフ市場の𝑊∞). X ={𝑥↑,𝑥↓}(例 15.1.6 の二つの株価比)とし,例 15.6.4 の列,すなわちどちらの状態からも確率9/10で同じ状態にとどまり確率1/10でもう一方に移るマルコフ情報源(定義 3.1.3)を定常分布から始めたものに,本節のはじめに借りた両側への拡張を当てて,両側の定常列…,𝑋−1,𝑋0,𝑋1,…を得る.このとき
𝑊0=12log98=0.0849…,𝑊𝑘=25(𝑘≥1)であり,𝑊∞ =25である(𝑊𝑘は 定義 15.7.2,𝑊∞は 定義 15.7.6 のものである).
証明. 𝑊0から見る.両側への拡張の非負の時刻の部分は 例 15.6.4 の列と一致するから,例 15.6.4 より𝑋0の分布𝑝0は{𝑥↑,𝑥↓}上の一様分布,すなわち 例 15.1.6 の𝑝であり,𝑊( ⋅,𝑝0)の最大値は12log98である.命題 15.7.3 よりこれが𝑊0である.
条件付き分布を求める.𝑘 ≥1と,正の確率をもつℎ =(ℎ1,…,ℎ𝑘) ∈X𝑘をとる.列は定常だから(𝑋−𝑘,…,𝑋−1,𝑋0)の同時分布は(𝑋0,…,𝑋𝑘)のそれに等しい.両側への拡張の非負の時刻の部分は 例 15.6.4 の列と一致するから,後者は 定義 3.1.3 より初期分布と遷移確率の積に分かれる.初期分布を𝜇(例 15.6.4 の定常分布),遷移確率を𝑃と書いて並びを対応させると
Pr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘)=ℎ,𝑋0=𝑥]=𝜇(ℎ𝑘)𝑃(ℎ𝑘,ℎ𝑘−1)⋯𝑃(ℎ2,ℎ1)𝑃(ℎ1,𝑥)であり,𝑥について足したものがPr[(𝑋−1,…,𝑋−𝑘) =ℎ]だから,𝑝ℎ(𝑥) =𝑃(ℎ1,𝑥)である.すなわち𝑝ℎはℎの最初の成分だけで決まる.
ℎ1 =𝑥↑の場合を計算する.𝑝ℎ(𝑥↑) =9/10,𝑝ℎ(𝑥↓) =1/10である.これは 例 15.2.9 の分布そのものだから,全額を銘柄2に寄せたポートフォリオ𝑏が分布𝑝ℎについての対数最適ポートフォリオであり,𝑊(𝑏,𝑝ℎ) =45である.
ℎ1 =𝑥↓の場合は 15.2 節 の Kuhn–Tucker 条件で確かめる.𝑝ℎ(𝑥↑) =1/10,𝑝ℎ(𝑥↓) =9/10で,全額を銘柄1に寄せたポートフォリオ𝑏′をとると資産倍率はどちらの株価比でも1だから,定理 15.2.4 の左辺は𝑗 =1について1,𝑗 =2について110 ⋅2 +910 ⋅12 =1320である.よって𝑏′が分布𝑝ℎについての対数最適ポートフォリオであり,定義 15.1.4 より𝑊(𝑏′,𝑝ℎ) =log1 =0である.
𝑊𝑘の値を出す.列は定常だから𝑋−1の分布は𝑋0の分布𝑝0,すなわち一様分布であり,Pr[𝑋−1 =𝑥↑] =Pr[𝑋−1 =𝑥↓] =12である.𝑘 ≥1について,定義 15.7.2 の和のうち最初の成分が𝑥↑であるℎの寄与は,𝑊(𝑏∗𝑘(ℎ),𝑝ℎ)の値がどれも45で,重みの和がPr[𝑋−1 =𝑥↑] =12だから12 ⋅45であり,最初の成分が𝑥↓であるℎの寄与は同様に12 ⋅0である.よって𝑊𝑘 =25である.定義 15.7.6 より𝑊∞ =sup𝑘≥0𝑊𝑘で,𝑊0 =0.0849… <25だから𝑊∞ =25である.◼
例 15.7.7 の市場では,記憶を一期ぶん使えるようにしただけで1期あたりの対数収益の期待値が0.0849…から25へ上がる.例 15.6.4 で見たとおり,この市場の𝑋0の分布は記憶のない 例 15.1.6 の市場のそれと同じだから,固定したポートフォリオ𝑏について 系 15.6.2 の右辺𝑊(𝑏,𝑝0)も二つの市場で同じ値である.同じ値になるのは市場のせいではなく,運用の仕方のせいだったということである.そして二期以上さかのぼっても値は変わらない.次に何が出るかについて,直前の一つが知っていること以上のことを,それより前の株価比は知らないからである(定義 3.1.3).
下向きと分かっているときの最良の値が0にとどまるのは,15.4 節 で見たのと同じ事情による.下向きのときに資産を増やす銘柄がこの市場にはなく,できるのは減らないこと,すなわち全額を現金に寄せることまでだからである.
上がり幅そのものにも上限がある.𝑊𝑘が 定義 15.4.3 の最適倍加率と同じ形であることは 定義 15.7.2 のところで見たとおりで,副情報の値打ちを測った 15.4 節 の評価がそこから効く.
系 15.7.8(記憶による増分の上界). 𝑚 ≥1とし,Xを株価比(定義 15.1.1)からなる空でない有限集合,…,𝑋−1,𝑋0,𝑋1,…をXに値をとる両側の列,𝑘 ≥0を整数とする.このとき
𝑊𝑘−𝑊0≤𝐼(𝑋0;(𝑋−1,…,𝑋−𝑘))である(𝑊𝑘は 定義 15.7.2 のもの,𝐼は 定義 1.3.1 の相互情報量である).
証明. 𝑌 :=(𝑋−1,…,𝑋−𝑘)とおく.𝑌は空でない有限集合X𝑘に値をとる.これを 定義 15.4.1 のYにとり,𝑝(ℎ) :=Pr[𝑌 =ℎ]とおくと,𝑝はX𝑘上の分布である.𝑝(ℎ) >0を満たすℎについては𝑝( ⋅ ∣ℎ)を 定義 15.7.2 の𝑝ℎとし,𝑝(ℎ) =0を満たすℎについては𝑝( ⋅ ∣ℎ)をXの元を一つ選んだ一点分布とすると,どれもX上の分布であり,どちらの場合も𝑝(ℎ) 𝑝(𝑥 ∣ℎ) =Pr[𝑌 =ℎ, 𝑋0 =𝑥]だから,これが対(𝑋0,𝑌)の同時分布である.すなわち 定義 15.4.1 と 定義 15.4.3 の設定がそろう.
二つの最適倍加率(定義 15.4.3)を読み替える.𝑊∗(𝑋0 ∣𝑌)の和のうち𝑝(ℎ) =0の項は0で,残る項は𝑝(ℎ)max𝑏𝑊(𝑏,𝑝ℎ),すなわち 定義 15.7.2 の和の項そのものだから,𝑊∗(𝑋0 ∣𝑌) =𝑊𝑘である.いっぽう 定義 15.4.3 の周辺分布は∑ℎ𝑝(ℎ) 𝑝(𝑥 ∣ℎ) =Pr[𝑋0 =𝑥],すなわち𝑋0の分布𝑝0だから,命題 15.7.3 より𝑊∗(𝑋0) =max𝑏𝑊(𝑏,𝑝0) =𝑊0である.
そこで 系 15.4.5 を対(𝑋0,𝑌)に当てれば主張を得る.◼
例 15.7.7 の市場で𝑘 =1ととって両辺を計算する.左辺の増分は25 −0.0849… =0.3150…である.右辺に移ると,𝑋0は2点上の一様分布だから 定理 1.1.5 の等号の場合にあたり𝐻(𝑋0) =1である.𝑋−1を与えたときの𝑋0の分布は,例 15.7.7 の証明のとおり,どちらの条件のもとでも一方に9/10,他方に1/10を与える.条件付きエントロピー(定義 1.2.2)は各条件のもとのエントロピーの平均だから𝐻(𝑋0 ∣𝑋−1) =𝐻𝑏(1/10) =0.4689…であり(𝐻𝑏は 例 1.1.2 の二値エントロピー関数である),定理 1.3.4 より𝐼(𝑋0;𝑋−1) =1 −𝐻𝑏(1/10) =0.5310…となる.たしかに増分のほうが小さい.例 15.4.8 が 例 15.1.6 の市場に9割の予想を副情報として与えたときの増分と相互情報量も,この二つと同じ数である.副情報の値打ちを測った 15.4 節 の評価は,副情報が外から来るのではなく市場自身の過去であるときにも,そのまま効いている.
𝑊𝑘を上から抑える式は,これで 命題 15.7.5 の 1. と 系 15.7.8 の二つになった.どちらが強いかは市場による.命題 15.7.5 の 1. を𝑘 =0に当てると𝑊0 ≤log𝑥maxだから,系 15.7.8 のほうが強いのは相互情報量がlog𝑥max −𝑊0以下のときで,それを超えると 命題 15.7.5 の 1. のほうが強い.例 15.7.7 の市場で𝑘 =1ととると,𝑥max =2だから前者が与えるのは𝑊1 ≤1,後者が与えるのは𝑊1 ≤𝑊0 +𝐼(𝑋0;𝑋−1) =0.0849… +0.5310… =0.6159…であり,相互情報量が1 −0.0849…を下回っているぶん,後者のほうが強い.
記憶をいくらでも深くしたとき
𝑊∞は定義のうえでは上限にすぎず,どれか一つの戦略が実際にその速さで資産を増やすとは,ここまでのどの主張も言っていない.言えることを二つ借りる.本節が列のエルゴード性を使うのは,この二つだけである.
一つめは 無限の過去を使う戦略の収束 である.借りる形は次のとおりである.Xを株価比(定義 15.1.1)からなる空でない有限集合とし,Xに値をとる両側の定常列…,𝑋−1,𝑋0,𝑋1,…がエルゴード的であるとする.このとき,無限の過去(𝑋−1,𝑋−2,…)の各実現に,その実現のもとでの𝑋0の条件付き分布についての対数最適ポートフォリオ(定義 15.2.3)を割り当てる規則𝑏∗∞で,その1期あたりの対数収益の期待値𝔼[log(∑𝑚𝑗=1𝑏∗∞(𝑋−1,𝑋−2,…)(𝑗) 𝑋0(𝑗))]が𝑊∞(定義 15.7.6)に等しいものが存在する.この規則を第𝑖期にそのときまでの過去に当てて𝑏∗∞(𝑋𝑖−1,𝑋𝑖−2,…)を使い続けると,確率1で
1𝑛𝑛−1∑𝑖=0log(𝑚∑𝑗=1𝑏∗∞(𝑋𝑖−1,𝑋𝑖−2,…)(𝑗)𝑋𝑖(𝑗))⟶𝑊∞となる.当てる対象は 定義 15.2.3 の対数最適ポートフォリオと 定義 15.7.6 の𝑊∞で,使うのはこのあとの筋書きの中だけだから,本書の主張がこれに依拠することはない.規則𝑏∗∞を一つ決めてしまえば,時間平均がその期待値に収束すること自体は 15.6 節 が借りた Birkhoff の個別エルゴード定理の当たる形になる(当てるのは,無限の過去と第0期の株価比とで決まる資産倍率の対数である).借用が言い足しているのは,無限の過去のもとで条件付き対数最適な規則がとれることと,その1期あたりの対数収益の期待値がちょうど𝑊∞であることの二つで,時間平均の行き先はこの二つから出る.
二つめは 記憶が伸びる戦略の収束 である.同じ設定で,第𝑖期に深さ𝑖の条件付き対数最適ポートフォリオ(定義 15.7.2)を,そのときまでに出た𝑖期ぶんの株価比に当てて使う戦略をとる.すなわち第0期は𝑏∗0,第1期は𝑏∗1(𝑋0),第2期は𝑏∗2(𝑋1,𝑋0),と深さを一つずつ伸ばしていく.この戦略についても,確率1で
1𝑛𝑛−1∑𝑖=0log(𝑚∑𝑗=1𝑏∗𝑖(𝑋𝑖−1,…,𝑋0)(𝑗)𝑋𝑖(𝑗))⟶𝑊∞となる.当てる対象は 定義 15.7.2 の𝑏∗𝑘と 定義 15.7.6 の𝑊∞だけで,本書のどの主張もこれを使わない.章の結論として述べるだけである.
本書はこの二つを証明しない.以下に書くのは二つめの筋書きであって,証明ではない.筋は上下からの挟み撃ちで,どちらの向きも𝑛期ぶんの資産の比を作り,補題 3.5.3(期待値が1で抑えられた比は1𝑛logの尺度では消える)を当てる.
上からは,記憶が伸びる戦略の資産を,𝑏∗∞を使い続けたときの資産で割る.第𝑖期の分子が使う𝑏∗𝑖(𝑋𝑖−1,…,𝑋0)は分母が条件付けている無限の過去で決まるから,分母が無限の過去のもとで条件付き対数最適であることとあわせて,条件付けた形の 定理 15.3.1 が当たり,各期の比の条件付き期待値は1を超えない.これを𝑛期ぶんの積へ渡し,補題 3.5.3 と,いま借りた無限の過去を使う戦略の収束とを合わせると,上からの評価が𝑊∞になる.
下からは,深さ𝑘を固定した戦略の資産を,記憶が伸びる戦略の資産で割る.こちらは比の期待値が1以下だとは言えない.第𝑖期に深さ𝑘の戦略が見る(𝑋𝑖−1,…,𝑋𝑖−𝑘)は,𝑖 <𝑘のとき,記憶が伸びる戦略が見ている(𝑋𝑖−1,…,𝑋0)に入っていないからである.実際,例 15.7.7 の市場で𝑘 ≥1とし,第0期だけをとってみる.定義 15.7.2 が一つ選ぶポートフォリオとして,分子の深さ𝑘には 例 15.7.7 の証明が挙げたもの,すなわち𝑋−1が上向きなら全額を銘柄2に,下向きなら全額を銘柄1に寄せたものを,分母の深さ0には 例 15.2.6 の対数最適ポートフォリオをとる.資産倍率と比は,𝑋−1と𝑋0の向きの組み合わせごとに次のようになる(分母の値は 例 15.1.6 の計算による).
- 𝑋−1も𝑋0も上向き.分子2,分母3/2,比4/3.
- 𝑋−1が上向きで𝑋0が下向き.分子1/2,分母3/4,比2/3.
- 𝑋−1が下向きで𝑋0が上向き.分子1,分母3/2,比2/3.
- 𝑋−1も𝑋0も下向き.分子1,分母3/4,比4/3.
二つの向きがそろう確率は9/10だから,比の期待値は910 ⋅43 +110 ⋅23 =1915で,1を超える.
そこで第𝑖期を𝑖 ≥𝑘のところだけ取り出す.𝑖 ≥𝑘なら深さ𝑘の戦略が見る𝑘個は記憶が伸びる戦略の見る𝑖個に入る.そのときまでの過去の実現ℎを一つ固定すると,分母のポートフォリオはその実現についての条件付き分布𝑝ℎの対数最適ポートフォリオ(定義 15.7.2)で,分子のポートフォリオもℎで決まる一つのポートフォリオだから,分布を𝑝ℎとする市場についての 定理 15.3.1 がそのまま当たる.実現は有限個だから,あとはℎの確率で重みをつけて足せばよく,各期の比の期待値は1を超えない.同じ運びを最後の期から順に繰り返せば,𝑛期ぶんの積についても期待値は1以下になる.どの段も有限和の計算である.落とした最初の𝑘期ぶんの対数収益は,Xが有限で株価比がどれも正だから𝑛に依らない量で抑えられ,1𝑛の尺度では消える.こうして下からの評価は深さ𝑘の戦略の時間平均以上になり,その時間平均には 15.6 節 が借りた Birkhoff の個別エルゴード定理が当たって𝑊𝑘に行き着く.𝑘はいくらでも大きくとれるので,命題 15.7.5 と合わせて下からの評価も𝑊∞になる.
足りないのは二つで,どちらも上からの評価の側にある.一つは,無限の過去で条件付けた形の 定理 15.3.1 である.有限の深さで条件付けた形なら,いま見たとおり実現ごとに 定理 15.3.1 をそのまま当てて重みをつけて足せばよく,本書に足りないものはない.無限の過去では,実現ごとに固定するこの手が使えない.もう一つは,各期の条件付き評価から𝑛期ぶんの積へ渡る段である.下からの評価では実現が有限個だから有限和の計算で済んだが,上からはそうはいかない.条件付ける先が期ごとに増えていくので,無限の過去で条件付けた期待値を入れ子にすることになり,本書が無限の過去について認めている二つの操作,すなわち第3章 3.5 節 の条件付き確率のチェイン則と,実現ごとに固定してとる期待値との二段分けの外に出る.
𝑊∞は,市場の記憶をどこまでも使ってよいときの1期あたりの増え方であり,記憶が伸びる戦略の収束によれば,過去を全部覚えなくても,覚える期数を一つずつ伸ばしていくだけでそこに届く.例 15.7.7 で見たとおり,同じ市場に同じ額を置いても行き先が変わるのは市場のせいではなく運用の仕方のせいだった.その運用の仕方でどこまで行けるかという問いに,借りた二つが𝑊∞という答えを与えていることになる.ただしここまでの最良の戦略はどれも,分布を知っている者のものである.𝑏∗を組むには𝑝が,𝑏∗𝑘を組むには条件付き分布が要る.ここまでの本章は,市場に分布を置き,株価比を確率変数として扱ってきた.15.8 節 はその枠組みを離れる.
InformationTheory — 形式化検証つき情報理論教科書(レビュー版).数式は MathJax + AMS Euler で事前レンダリング.