15.1 市場とポートフォリオ
第5章は,次に何が出るかに賭ける人の資産を追った.場面は競馬で,勝った馬だけが払い戻すから,1レースで資産が何倍になるかは,その馬に賭けた比率とその馬のオッズとの積という一つの値だった(定義 5.1.2).本章は同じ問いを株式の市場に移す.市場ではどの銘柄も同時に値をつけるので,資産を𝑚個の銘柄に割っておくと,1期のあいだに各銘柄の持ち分がそれぞれ何倍かになり,手元の資産全体は,割った比率で重みをつけた和の倍になる.一つの積が和に変わる,というこの一点が本章と第5章のすべての違いを生む.
資産を毎期すべて配分し直すこと,資産の対数を期数で割って1期あたりの増え方に直すこと,そしてその期待値を良さの尺度にとることは,第5章 5.1 節の設定をそのまま引き継ぐ.引き継がないのはオッズだけで,その役は次に定める株価比が引き受ける.
定義 15.1.1(株価比と市場). 𝑚 ≥1を銘柄の数とする.1から𝑚までの各番号に正の実数を返す関数𝑥を 株価比 と呼び,その値𝑥(𝑗)を,1期のあいだに銘柄𝑗が資産を何倍にするかとする.株価比からなる空でない有限集合Xと,Xに値をとる確率変数𝑋の組を 市場 と呼び,𝑋の分布を𝑝と書く.
Xの中身は第5章から入れ替わっている.あちらのXは馬の集合,すなわち起こりうる結果を並べたものだったが,こちらのXの元は1期の市場全体の出方であり,𝑚個の銘柄すべてに何倍かを割り当てる関数である.馬にあたるのはXの元ではなく銘柄の番号𝑗のほうで,これから𝑥(𝑗)という書き方が繰り返し出るのはそのためである.
本章の𝑚はつねに銘柄の数である.第6章 定義 6.2.1 以来,第8章と第14章もメッセージの番号を𝑚と書いてきたが,本章にメッセージは出てこない.
定義 15.1.2(ポートフォリオと資産倍率). 𝑚 ≥1とする.1から𝑚までの各番号に非負の実数を返す関数𝑏で∑𝑚𝑗=1𝑏(𝑗) =1を満たすものを ポートフォリオ と呼ぶ.株価比𝑥(定義 15.1.1)に対する𝑏の 資産倍率 を
𝑚∑𝑗=1𝑏(𝑗)𝑥(𝑗)で定める.
違いの源はこの一点で,ここから二つのことが変わる.計算の形と,正値性の置き場所である.
一つめは計算の形である.競馬では勝った馬だけが払い戻すので,1レースの倍率は,その馬に賭けた比率とオッズとの積という一つの値だった.市場ではすべての銘柄が同時に値をつけるので,資産倍率は𝑚個の項の和になる.第5章 定理 5.2.1 の証明は,二つの倍加率の差をとると,1レースの倍率の対数からオッズの項が引き算で消えて相対エントロピーが残る,という計算だった.和の対数は項ごとには分かれないから,市場ではこの計算がそのままの形では動かない.何が代わりに残るかは 15.2 節で見る.
二つめは正値性の置き場所である.第5章 定義 5.1.1 は賭け金の配分がすべての点で正であることを課していた.0を賭けた馬が勝つと資産が0になり,その対数が定まらなくなるからである.本章のポートフォリオ(定義 15.1.2)は成分が0でよい.どの銘柄も同時に値をつけるので,買わなかった銘柄があっても,買った銘柄の項が資産倍率を正に保つからである.代わりに,株価比のほう(定義 15.1.1)にすべての点で正であることを課してある.こちらが0を許すと,その銘柄に全額を寄せたポートフォリオの資産倍率が0になってしまう.
定義 15.1.3(資産). 𝑚 ≥1とし,Xを株価比(定義 15.1.1)からなる空でない有限集合,𝑏をポートフォリオ(定義 15.1.2)とする.Xに値をとる株価比の列𝑋1,𝑋2,…に対し,初期資産を1として,毎期すべての資産を同じ𝑏で配分し直すとき,𝑛期後の 資産 を
𝑆𝑛(𝑏):=𝑛∏𝑖=1𝑚∑𝑗=1𝑏(𝑗)𝑋𝑖(𝑗)で定める(𝑛 =0のときは空の積で𝑆0(𝑏) =1である).記号𝑆𝑛(𝑏)は株価比の列にも依るが,固定されているものとして書かない.
毎期同じポートフォリオで配分し直すというのも約束である.15.7 節 は,それまでに出た株価比を見てそのつど組み替える戦略を扱い,そこでこの約束を外す.
𝑆𝑛(𝑏)は1期ごとの資産倍率を𝑛個掛け合わせたものである.積のままでは大きさを比べにくいので,第5章 5.1 節と同じく,対数をとって𝑛で割り,1期あたりの増え方に直す.ここで資産倍率が正であることを見ておく.定義 15.1.1 より株価比の成分はどれも正で,定義 15.1.2 よりポートフォリオの成分は非負で総和が1だから,資産倍率は正である.だから次の定義の対数はつねに定まる.以下,本章ではlogの底を2にとる.資産が1期あたり2の何乗の速さで増えるかを測る量を次に置くので,指数の底と対数の底をそろえておく必要があるからである.
定義 15.1.4(倍加率). 𝑚 ≥1とし,Xを株価比(定義 15.1.1)からなる空でない有限集合,𝑝をX上の分布,𝑏をポートフォリオ(定義 15.1.2)とする.𝑏の 倍加率 を
𝑊(𝑏,𝑝):=∑𝑥∈X𝑝(𝑥)log(𝑚∑𝑗=1𝑏(𝑗)𝑥(𝑗))で定める.
倍加率は第5章 定義 5.1.3 と同じ量で,引数からオッズが消えた形である.あちらが平均していたのは1レースの倍率,すなわち勝ち馬に賭けた比率とそのオッズとの積の対数で,こちらが平均するのは資産倍率∑𝑚𝑗=1𝑏(𝑗) 𝑥(𝑗)の対数である.名前も第5章のまま使う.𝑊(𝑏,𝑝) =1とは資産の対数が1期あたり平均して1だけ増えるということで,底を2にとったのだから,これは資産が1期につき2倍の速さで増えることを意味する.
第5章の競馬は,本章の市場の形で読み直すことができる.第5章のアルファベットの各元,すなわち各馬を一つの銘柄とみなす.そして,ある馬が勝つという結果に,その馬の銘柄には第5章のオッズの値を,ほかの銘柄には0を返す関数を対応させる.すると資産倍率(定義 15.1.2)は,勝った馬に賭けた比率とその馬のオッズとの積という一つの項だけになり,定義 15.1.4 は 定義 5.1.3 と同じ式になる.ただしこうして得られる関数には値0が現れるので,これは 定義 15.1.1 の株価比ではない.正値性の置き場所が入れ替わっているのは,この0を避けるためである.
このあとの節の証明は,資産倍率が正であることを繰り返し使う.番号で引けるように,主張として書き留めておく.
補題 15.1.5(資産倍率の正値性). 𝑚 ≥1とし,𝑥を株価比(定義 15.1.1),𝑏をポートフォリオ(定義 15.1.2)とする.このとき𝑥に対する𝑏の資産倍率について
𝑚∑𝑗=1𝑏(𝑗)𝑥(𝑗)>0である.
証明. 定義 15.1.1 より各𝑥(𝑗)は正だから,𝑥の成分の最小値も正である.定義 15.1.2 より𝑏(𝑗) ≥0かつ∑𝑚𝑗=1𝑏(𝑗) =1だから,どの𝑗でも𝑏(𝑗) 𝑥(𝑗)はその最小値の𝑏(𝑗)倍以上であり,𝑗について足すと∑𝑚𝑗=1𝑏(𝑗) 𝑥(𝑗)は最小値以上になる.とくに正である.◻
例 15.1.6(現金と一つの株). 𝑚 =2とする.銘柄1は株価比がつねに1で(現金),銘柄2は2倍と1/2倍が確率1/2ずつであるとする.すなわち,上向きの株価比を𝑥↑,下向きのそれを𝑥↓と書いて,𝑥↑(1) =1,𝑥↑(2) =2,𝑥↓(1) =1,𝑥↓(2) =1/2とおき,X ={𝑥↑,𝑥↓},𝑝(𝑥↑) =𝑝(𝑥↓) =1/2とする.全額を現金にとったポートフォリオ(𝑏(1) =1,𝑏(2) =0)と,全額を株にとったポートフォリオ(𝑏(1) =0,𝑏(2) =1)の倍加率(定義 15.1.4)はどちらも0であり,半々にとったポートフォリオ(𝑏(1) =𝑏(2) =1/2)の倍加率は12log98 =0.0849…である.
証明. 全額を現金にとると,資産倍率はどちらの株価比でも1だから,定義 15.1.4 の各項がlog1 =0で和も0である.全額を株にとると,資産倍率は𝑥↑で2,𝑥↓で1/2だから,倍加率は12log2 +12log12 =12 −12 =0である.半々にとると,資産倍率は𝑥↑で12 ⋅1 +12 ⋅2 =32,𝑥↓で12 ⋅1 +12 ⋅12 =34だから,倍加率は12log32 +12log34 =12log98である.log98 =0.1699…だから,値は0.0849…になる.◼
例 15.1.6 の三つのポートフォリオは,同じ市場に同じ額を置いていながら倍加率が違う.現金だけでも株だけでも0なのに,半分ずつにすると正になる.株だけを持つと,2倍の対数と1/2倍の対数が打ち消し合って倍加率が0になる.半分を現金にしておくと,下振れの側が3/4倍までしか下がらない一方,上振れの側は3/2倍まで残るので,対数の平均が正の側に傾く.この形を作っているのは,毎期同じ比率に配分し直すという 定義 15.1.3 の約束である.上がった期には値上がりした株を売って現金に戻し,下がった期には現金で株を買い足すことになるので,高いところで減らし安いところで増やす売り買いが,比率を戻すだけで自動的に起きる.この値が実際の資産の増え方とどう結びつくかは,15.5 節 で扱う.
全額を配分するという約束についても,例 15.1.6 の市場でならその意味が見える.この市場は現金を銘柄の一つとして含み,そこに全額を寄せたポートフォリオはどの株価比でも資産倍率が1だから,手元に現金を置くことがポートフォリオの中で再現でき,毎期すべてを配分するという 定義 15.1.2 の約束はこの市場では何も禁じていない(第5章 5.1 節 が,逆数の総和が1であるオッズのもとで全額を賭けさせることについて言ったのと同じことである).どの株価比でも資産倍率が1になるポートフォリオが一つもない市場では,現金を持つことをポートフォリオの中で再現できない.
では,半々より良い割り方はあるだろうか.あるとして,第5章の比例賭けのような閉じた式で書けるだろうか.15.2 節 がそれに答える.
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